"さやけくて妻とも知らずすれちがふ"
と詠んだのは20世紀の俳人 西垣脩でした。秋の柔らかな陽光をうけて黄金色に輝く街路樹や街並みの美しさに見惚れ、道ですれ違った人が我が妻であることにも気付かない。そういった情景が思い浮かびます。今年もようやく蒸し暑い日々が終わり、街の風景が温かみを帯びる季節がやってきました。
もっとも今年は、道を歩いていてふとすれ違った人が友人知人であるのに、マスクのせいで気付けずに困るという別の問題に悩まされています。向こうからやってくる人が見知った人であるか判断がつかず、微妙に会釈のようなものをしてすれ違う瞬間のきまりの悪さといったらありません。風情どころの話でもなくなります。
いっぽうで10月に入り論文提出も近づき、春夏に比べれば多くの卒論生が研究室に顔を出すようになってきたことで、ようやく彼らの名前と表情とが私の頭の中で一致するようになりました。やっと躊躇せず「○○さん、最近どう?」といった肩の力を抜いた会話もできるようになってきました。
今だに時折、研究室では卒論生と修士生の間で「はじめまして」という挨拶が交わされています。オンライン上では何度か会話をしていても、実際に対面するのは初めてという具合です。例年とは勝手が違いますが、感染拡大に気をつけつつ、研究室メンバー間の交流もまた深めていければと思う次第です。
衣替えというわけではありませんが、研究室では先日、棚の整理を行いました。新しいカメラやPCの導入をうけて久しく使われていなかった古い機材の処分です。こういった機械に詳しい私や友人で、ひとつひとつ動作確認や研究室での使用の可否を判断し、「動くけれどもとても研究には使えない」という骨董品に関しては適宜学生間で払い下げを行いました。
私はと言えば、20年近く前に研究室に導入されたデジタルカメラを貰い受けました。ほとんどデジカメ黎明期ともいうべき時代の製品です。画素数の点で言えば、今日のスマートフォンにも敵いません。レンズのピントは手動で合わせなければいけません。
お世辞にも便利とは言えない代物ですが、自分が生まれた頃に最先端だった機械というものには不思議な憧れも感じます。時空を超えての憧れへのアプローチは、歴史研究室の学生の性でしょうか。いえ、単なるニッチな趣味かもしれません。とても重いカメラで遠くに持ち出すのは草臥れるので、色付いた庭の木を撮影。
"揺れやまぬ樹樹の梢や揺るることその健康に叶えるならん"
(川浪磐根)
文責:M1 原田佳典